町を歩いていると、特に古い街道沿いでは様々な地蔵堂と出会います。しかし、古い街道でなくニュータウンと呼ばれるような新しく造成された街の中にも、地蔵菩薩を祀る地蔵堂は存在します。
そして、場所によっては不動明王や観音菩薩など本来は地蔵菩薩ではないものも、地蔵堂としている場合があります。
例えば、河南町寛弘寺にある「庚申堂」もそのひとつです。あるサイトでは庚申堂地蔵尊と紹介されていましたが、本来は庚申堂のこと。庚申(こうしん)とは60ある干支の組み合わせで57番目に位置する(かのえさる)のことです。
庚申信仰(こうしんしんこう)は、元々道教が由来です。それによると三尸(さんし)と呼ばれる人間の体の中に虫(寄生虫ではありません)がいて、庚申の日の夜に人の体から出て天帝(天の帝釈天、閻魔大王とも)にその人の罪悪を報告します。その結果寿命が縮められると信じられていたために、庚申の日は虫が出てこられないように、夜通し眠らないという風習がありました。
その道教の信仰に仏教、神道、民間信仰など様々な要素が集まったのが庚申信仰になります。そして寛弘寺の庚申さんは、河南町の公式ページ(外部リンク)でも紹介されています。虫に報告されないように夜通し起きているのですが、ひとりでは睡魔の誘惑に襲われてついつい眠ってしまいます。そこで「庚申講」というグループを組織し、庚申の夜はみんなで集まって語り合いながら起きていたとのこと。戦前までは日本で盛んに行われていたそうです。
河南町の公式ページによると、屋根に使われている石は元々古墳時代の石棺の蓋だったそうです。また石燈籠には「カうし」と刻まれているとの口コミがありました。
庚申堂は河南町のページで紹介されている時の画像から建て替えられているようです。そして左右にベンチがありました。
右側の像です。手前に「庚申」と書かれているので、庚申さんだと思われますが、地蔵菩薩のように涎掛け(よだれかけ)がついています。
すこし見えにくいですが、左隣にも「庚申」と書かれているようです。
さらに左にも「不」の字が見える石碑ともうひとつ像があります。すべて涎掛けがついています。なので地蔵菩薩と間違えられたのかもしれません。いずれにしても地元の人が大切にしていることがわかるのは、すべての像の前に新しい花がいけられていることです。
庚申堂の手前には大きな石碑があります。
こちらには庚申とは直接関係ない、修験道の大峯講の碑が祀られていました。
これは奈良にある女人禁制で有名な大峰登山の参拝を記念して建てられたもので、下に34名の関係者(世話人、修験者、講)の名前が刻まれていました。1954(昭和29)年に寛弘寺の人たちで大峰山に登ったことを記念したそうです。
大峰山の石碑の横に小さなお堂があります。閉まっているので中の様子は確認できませんでしたが、花が生けられていることから、やはり地元に大切にされているものであることは間違いないようです。
庚申堂
住所:大阪府南河内郡河南町寛弘寺1201
アクセス:寛弘寺バス停から徒歩