【大阪狭山市】狭山池と周辺地域を見守るように鎮座する、半田の大宮こと狭山神社の歴史と祭神を再確認

狭山神社

これを書くと大阪狭山市の人にお叱りを受けるかもしれませんが、全国的に狭山といえば、埼玉県の狭山市のほうが有名かもしれません。「狭山」という名前の由来は武蔵野台地の中に孤立する「狭い山」狭山丘陵から来ているとのことで、それをお茶につけて「狭山茶」というネーミングとなりました。さらにそれが狭山市の名前の由来はなったとのこと。

狭山神社

それに対して大阪狭山市の「狭山」を調べると、東に羽曳野丘陵、西に泉北丘陵があり、それに挟まれた地形だからという説が有力です。そして歴史を見ると埼玉の狭山よりも大阪の狭山のほうが古く、日本書紀にも第十代崇神(すじん)天皇の時代にその名前が出てきます。

引用:日本書紀 御間城入彥五十瓊殖天皇 崇神天皇

“「六十二年秋七月乙卯朔丙辰、詔曰「農、天下之大本也、民所恃以生也。今河內狹山埴田水少、是以、其國百姓怠於農於農事。其多開池溝、以寛民業。」”

(現代語訳)六十ニ年秋七月二日に詔(みことのり)を出す。「農業は国の本である。人民のたのみとして生きるところである。今、河内の狭山の田圃は水が少ない。それで、その国(河内)の農民は農業を怠っている。そこで池や溝を掘って、民の生業を広めよう」

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崇神天皇の時代には池はできていなかったようですが、飛鳥時代の616年(4世紀という説もあり)になって「狭山」と呼ばれるふたつの丘陵に挟まれたところに狭山池を建造しました。こうして「狭山」という地名が最終的に現在の自治体の名前になったと考えられます。

狭山神社
金剛駅東側からは駅に裏山があるように見える

そんな「狭山」の名前を冠した神社が南海金剛駅の西側にある狭山神社です。東側の富田林方面から金剛駅を見ると裏山があるように緑に覆われていますが、あそこが狭山神社の敷地です。

狭山神社

また狭山神社のある場所はかつて半田村と呼ばれていたところに鎮座しており、別名が「半田の大宮」と呼ばれているそうです

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前田の地車小屋です。春に万博のEXPOアリーナで行われた地車の集結に大阪狭山市の代表として前田の地車が出ました。今回は前田の地車横の道から狭山神社を目指します。

狭山神社

後でも触れますが、狭山神社の祭神の中に、臣狭山命(おみさやまのみこと)と呼ばれる古墳時代の豪族がいます。この人物(神)は、中臣氏や狭山連(さやまのむらじ)の祖先として祀られているとのこと。

狭山神社

臣狭山命については常陸国風土記に記載が残っています。倭武天皇(日本武尊:やまとたけるのみこと)に仕える人物で、天之大神(建御雷神:たけみかづち)が、臣狭山命に御舟を(もって天皇に)仕えるよう託宣(たくせん:夢または体に乗り移って神の意志を告げる)し、臣狭山命はこれに従います。それが鹿島神宮の御船祭の起源とされているとのこと。

狭山神社

鳥居ではなく注連縄がかけられています。石柱は1975(昭和50)年に奉納されたもののようです。

狭山神社

ちなみに歩いているのは「ウラ参道」で、知る人ぞ知る道です。

狭山神社

小さな社が見えます。これは牛瀧社です。

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稲作には欠かせなかった大切な牛の神を祀っています。境内の中心から離れたウラ参道にありましたので、見逃す人も多いようです。

狭山神社

しめ縄を潜り、さらに進むと狭山神社の境内の中心に行けます。

狭山神社

狭山神社についておさらいすると、創建は不詳ですが、十代天皇の崇神の勅願(天皇からの願い)により創建されたという伝承がある古い神社です。仮にそうであれば、飛鳥時代に作られた狭山池を築造する際に狭山神社の近くを選んだとも考えられます。また、崇神天皇が「狭山に池を」と日本書紀で記載があるので、池を作るための前段階として神社を創建したのかもしれません。

狭山神社

また平安時代の延喜式神名帳でも狭山神社の名前があり、近隣にあった狭山堤神社とともに「大社」として扱われている式内社です。つまり古くからある神社としての格式があります。さらに859(貞観元)年には従五位上を授けられ、河内の国神名帳には正二位神階があると記されているとのこと。

狭山神社

但し、室町時代から江戸時代にかけては牛頭天王(ごずてんのう)社と呼ばれていて、牛頭天王を祀ったそうです。明治になり神仏分離により仏教要素を排除するため、牛頭天王と同格とされる、「素盞嗚命(すさのおのみこと)」に替えて祀るようになりました。

狭山神社

その後の狭山神社ですが、1872(明治5)年に郷社という地位となり、1907(明治40)年1月に、官公庁から金銭や物品の献上を受けることが認められた神饌幣帛料供進社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ)に指定されます。

狭山神社

そして明治の終わり頃に各地で行われた合祀が、狭山神社でも行われます。1907(明治40)年12月26日、字明神山にあった村社の狭山堤神社を合祀し、境内の摂社にしました。ちなみに狭山神社と同じ式内社が合祀されたとのはあまり例がなく、極めて異例のことだったようです。

狭山神社

また、同じ年に八雲神社(祭神 素盞嗚命)、2年後の1909(明治42)年には村社だった狭間神社(祭神 稲田姫命・大山祇神)も合祀したそうです。

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狭山神社の社殿の前に来ました。ここで改めて狭山神社の祭神を確認すると、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)と素盞嗚命が主祭神です。そして臣狭山命(狭山連の祖神)・天児屋根命(あまこやねのみこと)を配祀神(はいししん:主祭神と同じ社で祀られる神様)として祀られています。さらに明治の神社合祀により大山祇神(おおやまづみのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)も祭神として祀られているとのこと。

狭山神社

狭山神社の変額です。参拝しましょう。

狭山神社

ちなみに現在の社殿は室町時代中期の1493(明応2)年の再建と推定されているそうで、500年以上の歴史があります。

狭山神社

しかし、文化財の認定などは受けていないようです。

狭山神社

そして、こちらは狭山堤神社です。元々は狭山神社と同格の式内大社だったものが合祀され、境内社となりました。合祀前はかつて存在した狭山遊園地内の池に面した松林の中に鎮座していたとのこと。狭山堤とあるように狭山池の鎮守の神(五十色入彦尊/色入日子命:いにしきいりひこのみこと)です。

狭山神社

古事記によると11代垂仁天皇の子で崇神天皇の孫、そして12代景行天皇の兄に当たる人物です。垂仁天皇の時代に狭山に池を作ったとあります。

引用:古事記 中卷 垂仁天皇

"次印色入日子命者、作血沼池、又作狹山池、又作日下之高津池。"

(現代語訳)次に印色入日子は、血沼池を作り、また狭山池を作り、また日下の高津池をお作りになった。

この時に狭山に作った池は、今の狭山池とつながりがあるかどうかは不明(4世紀ごろの出来事)ですが、少なくとも先代の天皇が求めていたものを造ったことになります。そして色入日子命は狭山池の鎮守として、今も狭山神社の境内摂社として祀られていることになります。

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ちなみに現在の狭山池の中にある龍神社を管理しているのは狭山神社です。

狭山神社

こちらは戎神社で事代主(ことしろぬし)大神を祀っています。

狭山神社

右側は「埴土社」との記載があり、土や農業、陶芸、土木工事に携わる埴安姫大神(はにやすひめのおおかみ)と、五穀豊穣をつかさどる大歳神(おおとしのかみ)が祀られています。そして左側は「岐社」であり、国造りの伊弉諾命(いざなぎのみこと)と主に村の境などで祀られて外部からの約廟などを防ぐ塞神(さいのかみ)を祀っているとのこと。

狭山神社

こちら「水本社」を書かれていて、罪や汚れを海に流して極める水神の瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)と、山に由来する龍神として雨ごいや雨止めの祈願をつかさどる高龗神(たかおかみのかみ)が祭神として祀られています。

狭山神社

「足玉社」と記載があり、出雲の国造りで有名な大国主命(おおくにぬしのみこと)と、祝詞の神様と伝えられる天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っています。

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こちらでは、山の神の中でも総元締めとされる大山祇神(おおやまづみのみこと)と、天孫降臨で道案内をした「道開きの神」こと猿田彦大神(さるたひこおおかみ)を祀っています。

狭山神社

稲荷神社です。女神とされる宇賀御魂神(うかのみたま)が祭神で、1902(明治35)年に村社・宇賀御魂神社として創建されましたが、7年後に狭山神社に合祀されて境内社になりました。

狭山神社

このように狭山神社の境内には本当に多くの神々が祀られていました。

狭山神社

こちらは狭山神社の社殿竣工記念の石碑でした。平成六年の記載があります。

狭山神社

大阪府神社庁の説明です。伊勢神宮の神様と氏神様の御神札を祀ることを奨励していました。

狭山神社

ということで、最後は正面から狭山神社を後にします。日本でもっとも古くから「狭山」という地名の場所で古くから鎮座する狭山神社。境内には本当に多くの神々が祀られていました。

狭山神社

狭山神社の鳥居と参道の間にはバス道があります。バス道の手前から鳥居を撮影しました。

狭山神社

狭山神社

住所:大阪府大阪狭山市半田1丁目223

アクセス:南海金剛駅から徒歩6分

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